| 「八丈島・青ヶ島の宗教文化」 和光大学教授・山本ひろ子氏が執筆 古くから人々は神や精霊の声を聞き、儀礼や舞、祭文を生み出し、文化を形成してきました。八丈島と深い関わりのある青ヶ島の神事にいま、研究者から熱い視線が注がれています。その宗教文化を探るシリーズを、8月3日からスタートします。『東京の夏 音楽祭』(アリオン音楽財団主催)の「物部村のいざなぎ流祭儀」公演(03年)に続き、「青ヶ島の神事と芸能」公演(07年)でも、監修と司会を担当された和光大学表現学部教授・山本ひろ子氏に執筆していただきます。 山本氏の専門は日本思想史と宗教文化論。著書に『変成譜』(93年、春秋社)・『大荒神頌』(93年、岩波書店)・『異神』(98年、平凡社。03年にちくま学芸文庫に所収)・岩波新書『中世神話』(98年)、編著書に別冊太陽『祭礼』(06年、平凡社)などがあります。 |
| 1 青ヶ島の儀礼、海を渡る |

| 「島へ‐海を渡る音」を一大テーマに、〈東京の夏〉音楽祭2007(アリオン音楽財団主催)が一カ月余りにわたって開催された。ブードゥーあり、小笠原あり、アイスランドあり……。目白押しのプログラムの中でもっとも注目されたのが「青ヶ島の神事と芸能」(7月15・16日、草月ホール)といえよう。 それまで非公開だった島の神祭りが「海を渡った」こと自体が、千載一遇の「僥倖」だったし、それと符合するかのように天が応(いら)えの声を発し、15日は暴風雨の中での開演となった。すべてが「尋常」の埒外で起きているのも、絶海の孤島・青ヶ島に似つかわしい気がしてくる。 知られざる島=青ヶ島。その存在と歴史を、柳田國男の「青ヶ島還住記」(『島の人生』)によって初めて知った人が多いのではなかろうか。度重なる大噴火に見舞われ、50年に及ぶ辛酸の月日を費やして島へ「還住」を果たした「悲壮なる再興史」が、柳田独特の語り口で綴られている。 しかし「火の島」ではなく、「儀礼と祭文の島」として青ヶ島が脚光を浴びるようになるのは昭和40年代で、芸能史の大家・本田安次氏らの手で祭文の採集・翻刻が行われてからのことだ。八丈島・小島・青ヶ島の、いわゆる八丈系祭文の存在は私を驚かせ、少しかじってはみたが、それ以上に踏み込めないでいたのは、それらの祭文が神祭りの中でどのように誦(よ)まれたのか、つまり儀礼の「現場」が漠としてつかめなかったからだ。 公演に先立つ5月、金毘羅神社の例祭で初めてそのあらましを見知ったのだが、本番の舞台ではさらなる質と力が示され、かつ演出と約束ごとを凌駕・逸脱するトランスとパフォーマンスが実現、満座を魅了したことは瞠目に値する。 「還住」を昔は「起こし返し」と言った。2007年は、青ヶ島の新たなる「起こし返し」の年となるように思う。青ヶ島の儀礼から放たれたいくつもの矢。それらの光 芒を捕捉し、言葉と思考の領野につがえていくことができるかが、今我々に問われている。 |
| 2 御神火の神と対面 |

| 流人島・火山の島といえば、薩摩潟の鬼界が島が連想されようか。平家打倒の謀議に連座のかどで、鬼界が島へ流された丹波少将成経と平康頼・俊寛僧都の辿った運命は、鬼界が島説話として人口に膾炙(かいしゃ)した。読み本系の平家物語は、島人から「岩殿」の神=えびす三郎をねんごろに祀れば噴火が鎮まると聞いた康頼と成経が、「岩殿」を熊野本宮に見立てて絶海の孤島で熊野詣を挙行し、帰洛を祈ったと伝えている。「岩殿」は、火山の神の在所としていかにも似つかわしい。 さて噴火を「神火」・「地火」と呼んでいた八丈島だが、意外にも「御神火の神」は、大賀郷(字川の上)の五行神社(現在では不明)の社守・菊池家が代々祀る祖神であった。 言い伝えによれば、先祖の「ゲンクワウ」は「神火の神」と酒を酌み交し、「私の子孫が続く限り、地火の災いが及びませんように」と願ったところ、神は承諾して姿を消したという。菊池家伝来の「神火の神」像は、「ゲンクワウ」を象った木像=図=である(『八丈実記』所引「神社明細記」)。 関連記事で補うと、慶長10年(1605)12月15日、「神火」で一夜のうちに西山(のちの八丈富士)が吹き出した。当時の島の支配人「現光」は神々に、「どうか人家にまでは及びませんように」と標識を立てて祈念したところ、そこより中は難を逃れたので、村々では「現光」を神として祀ったという。八丈島の「神火の神」は、火山の神ではなく、その活動を鎮めた「現光」なのであった。 さてその「現光」(「ゲンクワウ」)は、年代から、菊池家(初代は菊池右馬之介)3代目の市右衛門武蔵と推定されている。御蔵(みぞう)奉行(島役人、当時は、「神主」も兼ねていた)として慶長から元和年間に活躍した人物だが、「現光」の表記は系図には見えないので、仮託・造型されたか、はたまた異名か。なお興味深いのは、この慶長10年頃、12月15日に「宮廻り」と称して、旧五ヶ村の神社を総鎮守の神主が巡見する行事が始まったことだ。 先の事跡との結びつきは今一つ不明だが、「現光」とその偉業から透かし見えるのは、「神火の神」と交渉する験力を備え、島内に宗教的威力を及ぼし、神と崇められた人物の貌である。 |
| 3『島々縁起』の世界 1 火山列島の神話へ 神と交渉して山焼きの被害を最小限に食い止めた功労で、御神火の神と崇められた人物(「現光」)もいれば、合戦のため墓の上に築城したかどで、御神火の神の怒りをかった人物もいる。神奈川城主・奥山宗鱗の家来で八丈島の代官となった奥山八郎五郎(のち式部と改名)がその人で、大永2年(1522)の噴火関連記事は、「明神おとがめ有りて、神火出る由、島の田地多く損失す」(『八丈実記』所引「八丈島年代記」)と伝えている。 |
| 4『島々縁起』の世界 2 壮大な島生みの神話 在所を求めて天竺から渡ってきた王子(三島大明神)に、日本の神が与えたのは、大地ではなく海だった――。 |
| 5『島々縁起』の世界 3 天上界の遠謀もなく 「島の上に大に穴を掘り、さきのごとく龍神の海の底より大なる石どもを巻き上げて、水火の雷これを焼き給へば、石も焼かれて湯になり、地の底をむくりて汀へさっと落ちければ、汀の石にも火付きて燃ゆれば、潮沸き返り、澳の波うちかけうちかけしければ、即ち岩となり、土となる。さるほどに本の島三分の二ばかり焼き出ぬ」(『島々縁起』)。 |
| 6『島々縁起』の世界 4 謎の女神・ミルメの連想 島立て事業に参与した精霊たちのなかでもひときわ目を惹くのが、龍神の化身「見目(ミルメ)」である。 |
| 7『島々縁起』の世界 5 〈王〉と〈青〉を追って 神々による十の島々の造立と命名で、特筆すべきは青ヶ島の名称である。「島の姿、王の鼻に似るとてわ(お)うこ島と名付けるなり」。 |
| 8『島々縁起』の世界 6 消えた「いなばえの后」 十の島々を焼き出し、主となった王子=三島大明神のその後の活躍はいかに――。『島々縁起』(別名・三宅記)の続きを語る余裕はないので、八丈島にまつわる重要な箇所を紹介しておく。 |
| 9 青ヶ島のカメ どこから? ここ3年、首里にある沖縄県立芸術大学大学院で集中講義をしている。「青ヶ島」をテーマとした今年度(9月)の受講者は、陶磁器専修の面々。楽しい3日間で、後日送られてきた期末レポートもなかなかの出来映えだった。その中で、青ヶ島の焼酎ガメの伝来を考察した木村容二郎君のレポートを要約・紹介しよう。 (和光大学教授) |
| 10 対馬と八丈島の亀卜 1 卜部たちがいた島 「……壱岐の海人(あま)の 上手(ほつて)の卜部を 肩焼きて 行かむとするに 夢のごと 道の空路(そらぢ)に 別れする君」(『万葉集』巻一五)。 |
| 11 対馬と八丈島の亀卜 2 亀蔵とネズミ藻 かつて10人もの卜部を中央に派遣していた対馬は亀卜の本貫地だった。江戸時代、対馬の亀卜は「殿様の御占・郡中の焼占」(『対州神社誌』)、つまり公けの儀礼として執行されている。しかし明治以降は途絶え、豆酘(つつ)の「雷(いかづち)神社」(嶽大明神)に習俗として残るのみとなった。問答の文句から「サンゾーロー祭り」とも呼ばれる。 |
| 12 対馬と八丈島の亀卜 3 キンジニヤニヤ猫の声すればよー 戦前に鈴木棠三が、対馬の阿連(あれ)で採集した「鼠浄土」の一つはこんな話だ。 |
| 13対馬の亀卜 4 鼠の浄土 |

| 子年にちなんで連載の再開は、松尾芭蕉が「歳旦開き」の句会で作った俳諧で飾ることにしよう。 人声の沖にて何を呼ぶ やらん(桃鄰) 鼠は舟をきしる暁 (芭蕉) * 対馬の豆酘(つつ)では亀卜神事でも、頭屋が行う赤米神事でも、ネズミ藻が欠かせない。食用でもなくありふれたこの藻が、なぜこれほどまで重用されているのか。ネズミ藻の謎から、昔話「鼠の浄土」がたぐり寄せられてきたのだった。 爺さんの握り飯がころがった地底は宝の国で、鼠たちは餅を搗いていた――。この昔話を旅の道連れに紀州をめぐった中上健次は、枯木灘に近い和深(わぶか)で、土地の人に鼠浄土の話を知ってるかと尋ねている。知らないとの返事に、ちょっとがっかりしたのか、「鼠浄土は、聴力と、想像力をきたえて、はじめて入り口が見えてくる」(『紀州―木の国・根の国物語』)と書いた。 「鼠の浄土」にさしたる関心のなかった中上だが、執拗にこだわったのは柳田國男である。農作物を食い荒らす害獣の鼠が、なぜ宝をもたらす主となるのか。「小さな昔話ではあるけれども、「鼠の浄土」の成り立ちには、一朝には説き尽くされぬ歴史があったようである」(「鼠の浄土」『海上の道』所収)。 鼠が海を渡るという事象や所伝を手始めに、主に南島に目を向けた柳田は、鼠の尊称(殿ガナシやウンジャミガナシ、ニライソコモイ)や鼠送りの習俗、日の神の子とする神話などを拾いながら、影の集団でしかなかった鼠を理論の水際へと追い込んでゆく。鼠は「ニライに属する尊者と認められて」おり、「ニライカナイから渡ってきたものと、昔の人たちには考えられていたらしい、ということだけは述べておきたい」。 論考「鼠の浄土」は、冒険的な推論の旅であり、想像力を駆使した一篇の詩学ともいえる。それゆえにニライと根の国との関係・転変など、テーマは複奏するが、さしあたり今は、鼠と他界との密接なつながりの「歴史」をみてとればよい。 ここで対馬のネズミ藻に戻ろう。柳田の引く『古今著聞集』には次のような話が見える。 伊予の黒島のとある浜で、水面がおびただしく光った。魚かと網を引いたら大軍の鼠で、それ以来、島は鼠で溢れ、畑の作物を食い荒らしたという。 ネズミ藻(学名ウミノトラノオ)は絡み合うように繁茂し、成長すると1?以上になる。その形状や生命力が鼠の集団性や繁殖力を連想させ、いつしかネズミ藻と呼ばれるようになったのだろうか。そこには、鼠たちの海彼の他界、「鼠の浄土」観が作用していたと思いたい。 赤米頭受け神事では、新頭屋の家に到着した赤米俵(御神体)の両側にネズミ藻を差してから、海水でネズミ藻と御神体を清める。この作法は赤米が対馬に伝来した遠い昔の記憶によるもので、ネズミ藻は「神移し」のなかだち・依代という(城田吉六『対馬・赤米の村』)。次回から扱う亀卜も大陸から半島を経て伝来した。対馬の「ネズミ藻」は、古くからの他界観と海の道の秘密を宿して、私たちに鼠の浄土譚の続編を強いるかのようだ。 (和光大学教授) |
| 14 対馬の亀卜 5 鼠の浄土 対馬豆酘(つつ)の儀礼に欠かせないネズミ藻をめぐっていささか寄り道をしたが、ここで話題を本筋の亀卜に戻すことにしよう。 |
| 15 対馬の亀卜 6 「対馬日記」と以酊庵 文化8年(1811)5月、佐賀藩の学者草場佩川は、朝鮮通信使を迎えるため幕命を受けた師に随行し対馬に渡った。『対馬日記』は、その二ヶ月余りの見聞録である。他国人の眼で、対馬や朝鮮通信使一行の様子が活写されており、画才を生かした地図や挿絵も興味深い。 |