07/10/26





 天下分け目の「関ヶ原の戦い」の敗将・宇喜多秀家は、流刑地八丈島で何を考えて暮らしていたか。地元に文献が少なく、不明とされてきた秀家の八丈島での動向を解き明かす貴重な史料が21日、町保健福祉センターで開かれた講演会で紹介された。金沢市立玉川図書館収蔵の『宇喜多家旧記』がそれ。講師の備作史料研究会会長で元岡山県郷土文化財団参事の人見彰彦氏(72)が読み解いた。旧記に書かれた秀家の遺訓からは、秀吉への恩を忘れず、利得に走らない生き方、人の道を踏みはずしたくないとする思いが、切々と伝わってくる。 講演は、同日から2日間の八丈島ツアー「宇喜多秀家公の足跡を訪ねる旅」(山陽新聞旅行社主催)のメニューに含まれていた。岡山から飛行機を乗り継いで来島した24人のほかに、この春岡山に出向いてこの旅行のきっかけを作った町議の伊勢崎和鶴右衛さん、山下松邦さんも出席した。
 『宇喜多家旧記』は、宇喜多一族が赦免となった1869(明治2)年に、島から持ち出されたもので、八丈島での秀家を知る貴重な記録。これを前田藩の書き手が写したという。その中に「久福様御遺訓」がある(久福とは、関ヶ原の合戦後に改めた秀家の号名)。そこには、天の道に対する人の道を「金銀財宝にあらず、高位高官にもあらず…、君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の交わりを能(よく)す」とある。利欲をかえりみず人の道を生きて家を亡ぼしたが、それも「本望」と記されている。
 秀家は、京都所司代に出頭したときや、久能山に幽閉されたときにも、家康に命乞いをしなかった。そして、八丈島に流罪後、徳川幕府から出された特赦を拒絶したとされている。その理由について、人見氏は「秀家は、自分に罪があるという徳川家康の考え方をおかしいと思っていた。人の道を踏みはずしたのは家康の方だ、という考え方が常にあった」と話す。
 豊臣秀吉は死の直前、秀頼を後継に据えるよう諸大名に頼んでいる。そのことを神仏に誓わせた『起請文(きしょうもん)』には、家康も血判を押している。「家康はその誓約を破った」というのが、秀家の言い分だった。
 久福の「遺訓」には、いかなる困難にあっても「身安楽に心乱れず」と記されている。その悠然とした生き方は「島の自然がうまく引き出したのでは」と人見氏はみる。秀家は流罪となった1606年から50年間島に暮らし、83歳で没した。主な戦国武将の生涯をたどると、平均寿命は51歳ぐらい。「秀家はその中では最長寿で、最後まで健常に生きた」とも述べた。


 ツアー参加者の中には山陽新聞社の編集局長、専務を歴任し、現在はラジオでのトークや執筆活動をしている赤井克己氏(73)もいた。八丈島の印象は「東京から近いのに、南国情緒があふれている。もてなしの心を行く先々で感じた。観光が振るわないと聞いたが、航空運賃に原因があるのなら、都に支援してもらってはどうか。八丈島の魅力はこれからラジオなどでPRしていく」と語った。秀家については、「文化人だった。大阪の備前屋敷でのお家騒動にみられるように、武将としての統治能力は評価されていないが、関ヶ原の戦いで多くの武将が家康側になびく中、秀家は秀吉の恩顧に報いるため西軍に参加した。で、負けはしたが、人間の幸福という観点からみると、関ヶ原で東軍に寝返った小早川秀秋のケースがわかりやすい。小早川は、秀家への裏切りの手柄によって、秀家の旧領だった備前・美作国の50万石ほどが与えられたが、21歳の若さで狂い死んだという。今のサラリーマン社会にも通じることだが、勝つことだけでは、人生をほんとうに楽しんだことにならない」と話した。 『宇喜多家旧記』の中の「故中納言秀家八丈島在世ノ口伝ノ事蹟」には、八丈島の宇喜多家に伝承されたさまざまな逸話などが出てくる。そこには秀家が植えた松の木(久福松)、五神山(護神山)に祀られた宇喜多家のご神体「加茂大明神」、孫の秀正、瓶、枯骨、硯、円鏡のことなど、興味深い話が満載だ。


 ツアー参加者は22日、宇喜多家子孫の中之郷、高橋時子さん(64)を訪ねた。「秀家といえば、小学生の頃、伯父(故・浮田半七さん)の家にあった銅鏡やお米の送り状を見た憶えがあるぐらい。系図も今はなく、何代目かもわかりません」と時子さんは笑った。それらの資料は観光ブームの頃、島内の研究者に頼まれて寄託して以来、行方がわからなくなっているという。
 時子さんの父は、半七さんの弟の秀一郎さん。ふたりとも大賀郷に住んでいた。